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勉強する本当の意味。「どうして国語は必要なの?」 後編
2011/06/09
昨日に引き続き、安藤先生のお話しです。
国語を勉強するのは日本語を覚えるから、そして覚えた言葉を駆使して、自分の想いや感情を他人に表現するため・・・と前回書きましたが、実は、日本語を覚えただけでは、自分の想いや感情を他人に表現することはできません。
なぜかというと、言葉はつなげないと会話にならないからです。
つまりここで、文章にするという力も必要になってきます。文章にするには、より多くの文章を読んで参考にし、実際に自分でも書いてみないと覚えることが難しい。小学校の頃、教科書をノートに写しましょうとか、作文を書きましょうとかって言われたのは、文章にして自分の想いや感情を他人に表現する訓練だったんですね。僕はそう思っています。
それでは、あらためて国語のテスト問題をイメージしてみてください。現代文の試験問題をやろうとすると、だいたい大問の1が評論文、2が小説文になっていますよ?「次の文章を読んで問いに答えなさい」なんていうヤツ。1の評論文をどうしてやらないといけないのか?というと、これは覚えた日本語を文にし、何が書かれているのか理解する訓練をするためです。ここでは客観的なモノの見方、大局的なモノの見方が学べます。
そして2の小説。これは何が学べるか?というと、他人の心情を理解するということなんですね。問題でよく、「主人公はその時どう思っていたか答えなさい」なんて設問があったりしますが、これは得てして自分自身の考えと違う場合がよくあります。主人公の考えを解答しないといけないのに、思わず自分の考えを書いちゃったり。実は、これによって自分と他人は違うんだ、だから他人の心には配慮しないといけないんだ、という感受性磨きの訓練をしているわけです。
学校で国語を勉強するのは、テストで良い点を取るためでもないし、偏差値を上げることが目的でもないんです。もちろん受験にはそれらの要素も必要になるけど、本質は違う。国語を勉強する目的は、
「日本語をたくさん覚えてボキャブラリーを増やし、それを文章にする能力を身につけ、自分の想いや感情を他人に表現するとともに、他人が自分とは違う感情を持っていることを知り、他人に配慮したり優しくできる人間になるため!」
なんですね。社会で生きていくには、相手の気持ちを慮ったり、時には甘えたり、そして喧嘩したりと、感情のぶつかり合いです。感情をぶつけるには、言葉を文章にして相手に伝えないといけないし、その文章も、相手の立場を配慮したものにすることが社会で他人と関わるルールというわけです。
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